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盛岡地方裁判所 昭和22年(ワ)3号 判決

原告 斎藤佐富 外一〇名

被告 杉沢才太郎 外一名

主文

原告らの請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

原告ら訴訟代理人は「原告十一名がそれぞれ岩手県二戸郡浄法寺町大字浄法寺字野黒沢十五番の一山林二町八反五畝十八歩について、共有の性質を有する入会権に基く共同収益権を有することを確認する。被告両名がいずれも右山林について、共有の性質を有する入会権に基く共同収益権ならびに共有持分権を有しないことを確認する。被告安ケ平タケは原告十一名に対し、右山林に関する、昭和二十二年十二月三日盛岡地方法務局浄法寺出張所受付第五九三号をもつて、昭和二十年六月二十八日安ケ平松太郎全持分十五分の二の家督相続による持分移転登記の手続をなすべし。被告杉沢才太郎は原告十一名に対し、昭和十五年一月二十五日前記浄法寺出張所受付第二二三号をもつて同日杉沢長次郎の全持分十五分の一の売買による持分移転登記の抹消登記手続をなすべし。訴訟費用は被告らの連帯負担とする」との判決を求め、その請求の原因として、

一、原告ら十一名はいずれも岩手県二戸郡浄法寺町大字浄法寺地内の字里代、字坂本、字上杉沢、字季ケ平、字野黒沢および字伊崎沢の六字の総称である杉沢部落内に居住する世帯主(以下杉沢部落民と仮称する)であり、被告はいずれも右杉沢部落外に居住する者であり、杉沢部落民ではない。

二、請求の趣旨掲記の山林は入会山林である。

1  前記山林は往時陸奥国二戸郡第十大区小六区杉沢村持山であり右旧杉沢村居住の全世帯主が一団となり、薪炭用雑木住宅建築用立木などの採取の目的で共同で使用収益して来た入会山林であつた。

その後明治初年地租改正に伴う山林原野の官民有区分の際、明治六年癸酉七月右旧杉沢村戸長から右山林の地券の下付を願い出ていたところ、明治九年一月二十九日地租改正事務局議定山林原野等官民所有区分処分方法などにより、旧来の慣行のとおり、村持の民有地に編入され、明治十三年五月十日付で岩手県から「陸奥国二戸郡浄法寺村、村持主、田口馬平」あてに地券が下付され、田口馬平の所有名義に書き上げられた。

前記旧杉沢村の地域は、前記六字の総称の杉沢部落の地域に該当し、右旧杉沢村が明治十一年郡区町村編制法により前記浄法寺村(浄法寺村は昭和十五年十二月二十五日浄法寺町と名称を変更された)に編入後右旧杉沢村地域を杉沢部落と称して来たのである。

2  このように前記山林は従来前記旧杉沢村すなわち前記杉沢部落居住の全世帯主が一団となり、薪炭用雑木、住宅建築用立木などの採取の目的で共同で使用収益して来た入会山林であり、前記のように同部落民の一人の田口馬平あてに地券が下付され、同人個人の所有名義に書き上げたが、同人個人の所有地ではなく、同人が杉沢部落の総代であり、同部落民全員のため信託的にその名義を表示されたにすぎなかつたのである。

それで杉沢部落民全員の総有の入会地を、いつまでも、田口馬平一人の所有名義にしておいて、後日紛議をかもす因となることがなくもないので、右田口馬平ら杉沢部落民全員協議の結果同部落民全員の所有名義にすることになり、明治三十年七月十九日右田口馬平から右山林を同人を含む当時の杉沢部落民の全員の左記十五名に譲渡したことにし、同日その旨の所有権移転登記を経由した。

右移転登記を受けた十五名は、

(イ)  田口馬平

(ロ)  芳本丹弥

(ハ)  芳本長太

(ニ)  斎藤米吉

(ホ)  斎藤孫太

(へ) 斎藤久太郎

(ト)  斎藤亥之松

(チ)  勘田清八

(リ)  田口円七

(ヌ)  田口亀治

(ル)  田口利八

(ヲ)  田口政吉

(ワ)  阿部八郎

(カ)  斎藤佐太郎

(ヨ)  安ケ平孫太

である。

右移転登記の結果登記簿上右山林は一見右十五名の単純な共有地のようになつたが、入会権は元来登記方法がなく、登記簿上に権利者を表示する方法をとるとすれば、前記のような共有登記の方法以外に途がなかつた。

三、前記田口馬平ら杉沢部落民各自の前記入会山林に対する共同使用収益の権能(以下共同収益権と略称する)の内容、同権能の得喪要件などに関する入会権の形態は従来の慣行によりつぎのようになつていた。

(イ)  共同収益の内容は、主として杉沢部落民の薪炭用雑木、住宅建築用立木などの採取を目的とするものであり、その権利行使の割合は、各部落民平等である。

(ロ)  もとより入会料を支払うようなことはないが、右山林に対する公課金などは各部落民が均分に負担した。

(ハ)  部落民の共同収益権の行使方法は、薪炭用雑木の採取については、毎年各自自由にその必要量を採取し、また住宅建築用立木の採取については、必要の都度、部落総代の許可を得て、その必要量を採取し得た。

なお薪炭用雑木の採取は近来国有林の雑木の払下を得られるようになつてから、その利用度が少くなつており、部落総代において、大正四年頃姉帯由太郎に、大正七年頃高田莞次郎に、大正九年頃斎藤市太郎にこれを売り渡し、また明治末から大正の初頃にかけ、右山林内数ケ所に杉の造林をしている。

(ニ)  右共同収益権は部落民が杉沢部落から他部落に転出したときは当然にこれを喪失し、また他部落から杉沢部落に転入したときは、同人の申込により部落総会において協議の結果同人が杉沢部落に定住するものと認めて承認した場合にこれを与えられるまた共同収益権およびこれによつて採取した雑立木などを他に売買その他譲渡することは禁止され、これに違反した譲渡契約は当然無効であり、譲受の契約をした部落外の者に共同収益権移転の効力を発生しないし、また譲渡の契約をした部落民は部落総会の協議により除名される。

(ホ)  なお入会山林の管理経営に関しては、従来毎年旧十一月十五日部落総代宅に部落民が寄合をして、山林の防火、植林手入、雑立木などの売払、売得金の管理処分、公課金の徴収などの山林管理経営に関する一切の事務、事業の報告ないし協議をしていた。

もつとも十数年前から寄合期日を毎年旧七月十八日に変更した。

四、原告ら前記入会山林の共同収益権者である。

1  前記のように右入会山林の共同収益権は他に譲渡することができなかつたにかかわらず、いずれも右山林に対する十五分の一の共有持分を有するとして、

(イ)  前記田口政吉は大正五年一月五日前記杉沢部落外居住の田口源蔵にこれを売り渡す旨の契約をなし、同月十九日その旨の持分移転登記を経由し、

(ロ)  前記勘田清八もまた、大正六年四月十五日前同様右田口源蔵にこれを売り渡す旨の契約をなし、同年六月十二日その旨の持分移転登記を経由した。

2  それで、杉沢部落民は、前記田口源蔵に対する前記1の(イ)(ロ)合計十五分の二の持分売渡契約は無効であるから、前記各持分移転登記の抹消などについて田口源蔵といろいろ交渉の結果、大正九年十一月二十九日同人との間に右十五分の二の一分七厘すなわち十五分の一・七の返還を受けることとなり、同日同人からこれを、前記田口馬平ら十五名もしくはその家督相続人の家から分家して杉沢部落内で世帯を持ち、部落総会の承認を得て共同収益権を与えられていた左記芳本与之ら十四名に売り渡すこととし、その旨の持分移転登記を経由した。

右移転登記を受けた十四名につぎのとおりである

(イ)  芳本与八

同人は前記芳本丹弥の孫である。

原告芳本勝見は与之の長男であり、当時肩書住所に分家していた。

(ロ)  斎藤甚作

同人は前記斎藤米吉の孫であり、甚作の父寅吉は当時原告斎藤勇八の肩書住所に分家していた。

原告斎藤勇八は甚作の婿養子であり、昭和十八年一月十四日甚作の死亡によりその家督相続をした。

(ハ)  原告斎藤佐富

同原告は右斎藤米吉の子であり、当時同原告の肩書住所に分家していた。

(ニ)  原告芳本長喜

同原告も右斎藤米吉の子であり、当時同原告の肩書住所に分家していた。

(ホ)  安ケ平千太

同人は明治三十七、八年頃浄法寺町(当時浄法寺村)大字浄法寺地内の太田部落から移住して来、以来原告安ケ平巳松の肩書住所で農業を営んでいたものであり、その頃部落総会の承認を得て共同収益権を取得した。

原告安ケ平巳之松は千太の長男であり、昭和十五年九月二十六日千太の隠居によりその家督相続をした。

(ヘ)  原告田口喜代松

同原告は前記田口円七の孫であり、当時同原告の肩書住所に分家していた。

(ト)  田口綱吉

同人は右田口円七の子であり、当時原告田口市郎の肩書住所に分家していた。

原告田口市郎は綱吉の婿養子であり、昭和十年十二月二十二日綱吉の隠居によりその家督相続をした。

(チ)  田口仁太郎

同人は前記田口馬平の孫であり、当時同町大字浄法寺字上杉沢六番地に分家していた。

(リ)  原告田口兼吉

同原告は前記田口亀治の子で、当時同原告の肩書住所に分家していた田口仁蔵の二男であり、昭和九月二月二十日仁蔵の死亡によりその家督相続をした。

(ヌ)  田口万治

同人は前記田口馬平の子であり、当時前記上杉沢六番地に分家していた。

(ル)  斎藤滝次郎

同人は前記斎藤亥之松の子の斎藤酉松の養子であり、当時前記上杉沢八番地に分家していた。

(ヲ)  阿部長松

同人は前記阿部八郎の子であり、当時原告阿部松の肩書住所に分家していた。

原告阿部松は長松の長男であり、昭和四年八月二十日長松の死亡によりその家督相続をした。

(ワ)  斎藤市太郎

同人は前記斎藤佐太郎の子であり、当時同町大字浄法寺字季ケ平八番地に分家していた。

(カ)  斎藤末吉

同人は右斎藤佐太郎の子であり、当時原告斎藤勇の肩書住所に分家していた。

原告斎藤勇は末吉の三男であり、大正十一年八月二十九日末吉の死亡によりその家督相続をした。

3  なお原告小坂長治は前記芳本長太の三男である。戸籍上九歳の時同町大字浄法寺字大清水小坂仁太郎の養子となつているが、小坂仁太郎方で生活したことがなく、昭和十八年十月四日長太方から肩書住所に移り住み、杉沢部落から移住したことのないものであり、昭和十九年十一月部落総会の承認を得て共同収益権を取得した。

五、しかるに被告らは、前記山林に対する原告らの権利関係は入会関係ではなく、単純な共有関係であると主張し、

1  前記斎藤久太郎が右山林に対する十五分の一の共有持分を有するとして、

(イ)  右斎藤久太郎の家督相続人斎藤重次郎は昭和十二年三月二十五日当時杉沢部落外居住の杉沢長次郎にこれを売り渡す旨の契約をなし、同日その旨の持分移転登記を経由し、

(ロ)  さらに右杉沢長次郎は昭和十五年一月二十五日右持分を被告杉沢才太郎に売り渡す旨の契約をなし、同日請求の趣旨記載のその旨の持分移転登記を経由し、

2  前記阿部八郎および斎藤亥之松がいずれも右山林に対する各十五分の一の共有持分を有するとして、

(イ)  右阿部八郎は大正十一年一月二十五日被告安ケ平タケの先代安ケ平松太郎にこれを売り渡す旨の契約をなし、同年五月二十七日その旨の持分移転登記を経由し、

(ロ)  右斎藤亥之松の家督相続人斎藤栄太郎は大正十年二月二十一日杉沢部落外居住の小田島定吉にこれを売り渡す旨の契約をなし翌二十二日その旨の持分移転登記を経由し、

(ハ)  さらに右小田島定吉は昭和十五年十二月十七日右持分を前記安ケ平松太郎にこれを売り渡す旨の契約をなし、同日その旨の持分移転登記を経由し、

(ニ)  被告安ケ平タケは右安ケ平松次郎が移転登記を受けた右(イ)(ハ)の合計十五分の二の持分について、昭和二十二年十二月三日請求の趣旨記載の昭和二十年六月二十八日家督相続による持分移転登記を経由した。

3  しかしながら、前記1、2の各売渡契約の対象の権利は、前記のように登記簿上共有持分権のようになつているが真実は入会権に基く共同収益権で、性質上譲渡性がないものであり、前記各売渡契約は無効である。したがつてこれにより共同収益権の移転の効力を生じない。また部落民が他部落に転出したときは、当然共同収益権を喪失するのであるから、杉沢部落外居住の被告らにおいて共同収益権を取得することのできないことも勿論である。右各持分移転登記はいずれもその登記原因を欠き無効である。

被告らは前述のように右山林の入会関係を否定し、単純な共有関係であるとして、原告らの入会権に基く共同収益権の行使を妨害するから、ここに原告らは被告らに対し、原告らがそれぞれ入会権に基く共同収益権を有すること、および被告らはいずれも右共同収益権も単なる共有権をも有しないことの確認を求め、また共同収益権者の全員のため保存行為として被告らに対し被告らに対する持分移転登記の抹消登記手続を求めるため本訴請求に及ぶと陳述した。〈立証省略〉

被告ら訴訟代理人は原告らの請求を棄却する、訴訟費用は原告らの負担とするとの判決を求め、答弁として、

一、原告ら主張一の事実を認める。

二、同二の事実のうち1の原告ら主張の野黒沢十五番の一山林二町八反五畝十八歩について、その主張の日時付岩手県から田口馬平あての地券が下付され、同人所有名義に書き上げられたこと、および2の原告ら主張の日時田口馬平から右山林をその主張の田口馬平ら十五名に譲渡し、その旨の所有権移転登記を経由したことはこれを認めるが右山林が原告ら主張のような入会山林であることその他の主張事実を否認する。

右山林は入会山林ではなく、単純な共有山林である。田口馬平は杉沢部落の総代ではなかつた。

三、同三の事実を否認する。

前記山林は一般通念からみても入会山林というべきものではなかつた。単純な共有山林であり、したがつてその持分を譲渡し得、権利者は杉沢部落民であることを要しない。

四、同四の事実のうち原告ら主張の持分移転登記事実を認めるが原告らが入会権に基く共同収益権者であることその他の主張事実を否認する。

原告らも単なる共有持分権者にすぎない。

五、同五の事実のうち原告ら主張の持分移転登記事実を認め、その他の事実を否認する。

以上原告らの本訴請求は失当であると陳述した。〈立証省略〉

理由

原告らがいずれも原告ら主張の杉沢部落内居住の世帯主すなわち杉沢部落民であり、また被告らがいずれも杉沢部落民でないこと原告ら主張の野黒沢十五番の一山林二町八反五畝十八歩について、明治十三年五月十日付で岩手県から田口馬平あてに地券が下付され、同人の所有名義に書き上げられ、右山林がその後明治三十年七月十九日右田口馬平から田口馬平らその主張の十五名に譲渡され、その旨の所有権移転登記が経由されたことおよび原告ら主張四、五の各1、2の日時右山林に対するその主張の各持分移転登記が経由されたことはいずれも当事者間に争いがない。

しかして原告らは前示山林は原告ら杉沢部落民総有の入会権であると主張し、被告らは単純な共有山林であると抗争するから、

一、まず本件山林が入会山林かどうかの点について検討する。

1  成立に争いのない甲第一号証、第五号証、第十一号証、証人田口仁太郎、芳本宮治(第一、二、三回)斎藤喜彌太の各証言により真正に成立したものと認める同第九、十号証に、右各証言、検証の結果を合せ考えるときは、

(イ)  本件山林が明治初年当時陸奥国二戸郡第十大区小六区旧杉沢村の村持山林であり、右山林について明治六年癸酉七月右杉沢村伍長斎藤大治、斎藤栄吉および芳本丹彌の連名をもつて青森県令(当時同地方は青森県に属していた)に対し地券の下付を申請したこと、

(ロ)  右申請に対し、明治十三年五月十日付で岩手県から「陸奥国二戸郡浄法寺村、村持主、田口馬平」あてに前示地券が下付されたこと、

(ハ)  右田口馬平は当時右旧杉沢村民であつたこと、

(ニ)  右旧杉沢村がその後(明治十一年郡区町村編制法により)前示地券記載の浄法寺村(浄法寺村は昭和十五年二月二十五日浄法寺町と名称を変更した)に編入された後、原告ら主張の六字に該当する右旧杉沢村地域を杉沢部落と称して来たこと、

が認められ、右認定を左右するに足る証拠がない。

2  当時政府は地租改正事業の準備に着手し、山林原野の官民有区分に関し、

(イ)  明治五年十月租税案日報第二十二号達をもつて、

「従来官山、官原、あるいは村持山林秣場などにしてその持主の定めがたいものはこれを公有地とし、地券を関係村に下付し関係村に預りおくべきこと」を命じ、

(ロ)  明治六年三月二十五日太政官布告第百十四号地所名称区別をもつて、

「野方、秣場のごとき入会地はこれを公有地として関係町村に地券を下付すべきこと」を定め、

もつて従来村持であること明らかな入会地は勿論、官有であるかどうか明らかでない村方の入会地をもすべて民有地に編入する態度をとつていたが、

(ハ)  明治七年十一月七日太政官布告第百二十号改正地所名称区別をもつて、これを変更し、入会地のうち民有の確証あるもののみを民有地、その他を官有地に編入する方針に出、

(ニ)  明治八年六月二十二日地租改正事務局乙第三号達をもつて、

「証拠とすべき書類のあるものは勿論だが、従来数村入会または一村持などの積年の慣行存し、比隣郡村においてもこの所に限り進退し来たるに相違なき旨保証する地所は、たとえ簿冊に明記なくともその慣行をもつて民有の確証と視認し、これを民有地に編入する儀と心得らるべく」と示達し、

確証を単に書面上の証拠によらず、もつぱらその地の従来の慣行に基いて決定し、その処分の適正を期することに努め、

(ホ)  明治九年一月二十九日地租改正事務局議定山林原野等官民所有区分処分方法第一条をもつて、

「旧領主地頭においてすでにその村持と相定め、官簿の内公証とすべき書類に記載これある分は勿論、口碑といえども樹木草茅などその村において自由にいたし、何村持と唱えて来たこと比隣郡村において瞭知遺証に代つて保証するが如き山野の類は旧慣のとおりその村持と定め、民有地第二種に編入するものとす」と定め、

以上の法規通達に基いて当時府県などの地方庁がそれぞれその管轄内の山林原野について官民有区分を実行したものであることは、当事者の立証をまつまでもなく当裁判所に顕著なところである。

3  前記甲第五号証、証人芳本長太、田口多吉、田口仁太郎、芳本宮治(第一、二、三回)、斎藤喜彌太の各証言に前示認定の1、2の各事実を合せ考えるときは、当時旧杉沢村のいわゆる村持山林であつた本件山林は、旧杉沢村民すなわち旧杉沢村が浄法寺村に編入後杉沢部落となつてからは、杉沢部落民が一団となり、共同で薪炭用雑木、住宅建築用立木などの使用収益をして来たいわゆる入会山林だつたので、この同地方の旧来の慣行を認めてこれを民有地に編入し、田口馬平を当時の杉沢部落民の総代の趣旨で、同人個人あての前示地券を下付し、信託的に同人の個人所有名義に書き上げられたものであることを認定するに十分である。乙第一号証証人泉山専太郎ら被告ら申請の各証人の証言によつても後段説明の事情に鑑み右認定を左右するに足らず、他に右認定を左右するに足る証拠がないから、明治十三年五月十日付の前示地券下付当時は本件山林は杉沢部落民全員の総有する入会山林だつたものといわなければならない。

二、本件山林に対する前示明治十三年当時の入会関係がはたしていつまで存続したか、今日まで存続するかどうか。

通常の事例においては、かつて存在したものは特段の事情のない限り現に存続するものと推測されるのであり、ことに入会は多く農民の生活に根ざし、その根が深く、農民生活の進化のように、歩みのおそいものであろうが、元来入会関係の成立は部落民と対象土地との経済関係に基くものであるから、時勢の変遷に伴いその経済関係の変化するときは、勢い入会関係においてもその影響を免れることはできないものといわなければならない。われわれの日常の経済関係が一般に明治十三年以降かなりの変化があるものとみられる今日、通例の場合と同じく本件山林の入会関係もなお存続するものと即断するのは早計である。この点について少しく仔細に検討する。

1  まず入会権の本態について考えるに、

入会権ことに山林原野の入会は理論上は当事者の契約によつても成立し得ないのでもないとしても、実際にみる山林原野の入会は、旧来の慣行によるものである。旧来の慣行による山林原野の入会は、農民の住む村落の自然的発達の過程においてでき上つた林野の利用関係を権利として承認されたものである。すなわち昔のわが国の村落の農民は一般に年貢の負担が重く、農業生産、農民生活の必要品を買い入れる余剰金はほとんど残らなかつたので農具や家具や塩の外はできる限り自家製品で間に合せなければならなかつた。それで稲作などの肥料、飼料の採草給源地としての山野が必要であり、また農民生活の燃料用薪炭材の給源地とし、農具の柄、乾燥用架木、住宅建築用材の給源地として山林が必要であつた。山林原野は村落の小農民の農耕生活上欠くことのできない補充財であつた。

しかもこのような山林原野の利用の方法は、採草地の火入、立木の伐採搬出作業などのように一定の共同労働を必要としたので、自然集団利用形式となり、村民協同体単位、部落民協同体単位の林野の利用形式を生じたのである。

このように山林原野の入会は、元来農民の農業生産および農民生活のための必要欠くべからざる補充財獲得のために生じたものであり、必要が自然農民を、地元部落の経済的立地条件によつて、日常必要とするところの生活資源があつてしかも利用至便の林野の利用に向けたのである。それで入会は在来農民の生存権的要求による自足経済的しかも現物経済的利用であつた。この要求による利用形態が官山にも民有林野にも及び、それが慣行としてやむを得ないものとして国家の承認を得て権利となつたのである。

すなわち山林原野の入会権は一定地域居住の農民協同体が慣行により一定の山林原野に共同に立ち入り同地上の日常必要とする産物を使用収益することを内容とする権利であるといわれるのであり、入会権の本態は一定地域居住の農民協同体がそのおかれた経済的立地条件により日常必要とする一定の林野の地上産物を共同使用収益するところにあり、一の用益物権である。地盤自体のそれではない。前示のように明治初年の山林原野の官民有区分に際し、このような農民の利用関係のある林野を民有地として村民の所有権、部落民の所有権を認められたものがあり、村民、部落民の所有地盤に村民部落民が前記のように利用関係をもつ、いわゆる共有の性質を有する入会権を生じたのであるが、入会権が共有権と異るのは、地上産物に対する利用関係の特殊性にあり、民法が入会権として、共有権と異るものとして保護を与えているのもまたこの利用関係の点にあるものといわなければならない。

したがつて、農民居住の部落の経済的立地条件による一定の山林原野に対する利用関係であり、部落の住民である農民は何人も共同で利用でき、しかも、部落の経済的立地条件の変らない限りいつまでも利用できるのではあるが、その利用の程度はやむを得ないものとして承認されたものであるから、部落の経済的立地条件から生ずる最少限度のものであるのが常態である。またしたがつて、入会権は部落の農民の協同体の総有するものであり、農民は部落の住民としての資格において使用収益の権能を有し、その使用収益の種類程度は原則として平等であり、その範囲は多く農民の日常の自家用および農耕用のやむを得ない需要を標準として定められるところに留まつていたのである。それで原則として地上産物の自足経済的利用の形態となり、貨幣経済的利用形態ではなかつたのである。また当該部落から移住したときは当然にその利用の権利を喪失し、他部落から当該部落に移住して来、住民としての地位を取得したときは当然にその権利を取得することになつたのである。

要するに農民の一定の経済的立地条件の部落の住民としての資格における平等利用と自足経済的現物経済的利用形態に入会権の本態があり、特性もここから生ずるものといわなければならない。

2  この観点から明治十三年当時の本件山林の入会権の内容について観察するに、

甲第十五号証は昭和二十八年四月七日の作成にかかり、なおその末尾に「右七ケ条は旧来の慣行であり、申合である」との記載があるが本件訴訟提起後の作成であり、後段認定の実情に鑑み、その記載事項をただちにもつて判断の資料とすることができないが、証人芳本長太、田口多吉、田口仁太郎、芳本宮治(第一、二回)、芳本長八(第一回)、斎藤喜彌太、田口正典、斎藤滝次郎の各証言によれば、杉沢部落民が約四十年前までは、本件山林から薪炭用雑木を伐採したり、建築用立木を伐採したりして来たこと、および各部落民のその伐採利用の割合が平等であつたことが認められるから、明治十三年当時も同様の利用方法であり、平等の割合だつたものと推認され、右認定に反する証拠がない。

右証人らおよび原告ら申請のその他の証人はその他の点についてもこの点に関しいろいろ述べているが、明治十三年当時においてそうであつたとの趣旨としては前同様後段認定の実情に鑑みにわかに採用することができない。その他右認定以上の事実を認めるに足る証拠がない。

3  つぎに明治十三年以後の本件山林の利用その他の実情についてみるに、

(一)  まず本件山林に関する登記関係について、

原告ら主張二の2および四、五の各1、2の登記関係事実は当事者間に争いがない。なお成立に争いのない甲第十四号証によれば、

(イ) 明治三十年七月十九日、同日譲渡を原因とする田口馬平から田口馬平、芳本長太、田口政吉、安ケ平孫太、勘田清八、斎藤亥之松、阿部八郎、斎藤米吉、斎藤久太郎ら原告ら主張の十五名に所有権移転登記(原告ら主張二の2の登記)

(ロ) 大正五年一月十五日、同月十四日右田口馬平の家督相続人田口嘉四の十五分の一の持分売買を原因とする右芳本長太に持分移転登記、

(ハ) 同月十九日、同月五日右田口政吉の十五分の一の持分売買を原因とする杉沢部落外居住の田口源蔵に持分移転登記、(原告ら主張四の1の(イ)の登記)

(ニ) 同月二十二日、同月十九日右安ケ平孫太の十五分の一の持分売買を原因とする浄法寺町(当時村)大字浄法寺字上杉沢六番地田口嘉太郎に持分移転登記、

(ホ) 同年七月四日、同年五月十四日右芳本長太の十五分の一の持分売買を原因とする右上杉沢六番地田口孫次郎に持分移転登記、

(ヘ) 大正六年六月十二日、同年四月十五日右勘田清八の十五分の一の持分売買を原因とする右田口源蔵に持分移転登記、(原告ら主張四の1の(ロ)の登記)

(ト) 大正九年十一月二十九日、同日右田口源蔵の十五分の一、七の持分売買を原因とする同町大字浄法寺字里代六番地芳本与之ら原告ら主張の十四名に持分移転登記、(原告ら主張四の二の登記)

(チ) 大正十年二月二十二日、同月二十一日右斎藤亥之松の家督相続人斎藤栄太郎の十五分の一の持分売買を原因とする杉沢部落外居住の小田島定吉に持分移転登記(原告ら主張五の2の(ロ)の登記)

(リ) 大正十一年五月二十七日、同年一月二十五日右阿部八郎の十五分の一の持分売買を原因とする杉沢部落外居住の安ケ平松太郎に持分移転登記(原告ら主張五の2の(イ)の登記)

(ヌ) 大正十四年十二月二十六日、同日右斎藤米吉の十五分の一の持分売買を原因とする前記上杉沢八番地斎藤滝次郎に持分移転登記、

(ル) 昭和十二年三月二十五日、同日右斎藤久太郎の家督相続人斎藤重次郎の十五分の一の持分売買を原因とする当時杉沢部落外居住の杉沢長次郎に持分移転登記(原告ら主張五の1の(イ)の登記)

(ヲ) 昭和十五年一月二十五日、同日右杉沢長次郎の十五分の一の持分売買を原因とする被告杉沢才太郎に持分移転登記、(原告ら主張五の1の(ロ)の登記)

(ワ) 同年十二月十七日、同日右小田島定吉の十五分の一の持分売買を原因とする右安ケ平松太郎に持分移転登記、(原告ら主張五の2の(ハ)の登記)

(カ) 昭和二十二年十二月三日、同日右安ケ平松太郎の家督相続人被告安ケ平タケの十五分の一の持分売買を原因とする前記里代二十九番地居住の右杉沢長次郎に持分移転登記、

(ヨ) 昭和二十三年七月十五日、同年六月二十日右田口源蔵の十五分の〇、三の残持分売買を原因とする同町大字浄法寺字坂本八番地の二号地勘田次郎に持分移転登記、

(タ) 昭和二十八年三月二十七日、同日右勘田次郎の十五分の〇、三の持分売買を原因とする右杉沢長次郎に持分移転登記、

をそれぞれ経由されていることが認められ右認定を左右するに足る証拠がない。

右持分移転登記事実を通覧するに、右(ロ)(ニ)(ホ)(ヌ)(タ)の場合は杉沢部落民同志の持分移転登記、右(ハ)(ヘ)(チ)(リ)(ル)の場合は同部落民から同部落外の者に対する持分移転登記、右(ヲ)(ワ)(カ)の場合は同部落外の者同志の持分移転登記、右(ト)(ヨ)の場合は同部落外の者から同部落民に対する持分移転登記であり、右田口源蔵、安ケ平松太郎、杉沢長次郎についてはしばらくおくとしても、右芳本長太も十五分の二の持分を取得したような登記になつているのである。

元来入会権には登記方法がないのであるから、その権利に関して登記方法によつて公示するためには権利者中の一名の所有名義に登記を経由するか、権利者中の数名もしくはその全員の共有名義に登記を経由する以外に途がないのであり、明治初年の山林原野の官民有区分に際し、従来の村持の入会山林などについてそのような登記方法をとつたものの少くなつたことは当裁判所に顕著なところであるから、登記簿上一名の所有名義に登記され、または数名の共有名義に登記されているからといつて、ただちにもつて右山林を入会山林ではなく、名義人の個人所有もしくは数名の単なる共有であるものと即断することはできないのであり、またしたがつて一旦一名の所有名義もしくは数名の共有名義に登記された後、分家または移入により住民となつた新権利者の権利をも公示する方法として、同人に従来の権利者の持分の一部を移転する旨の登記があつたとしても前同様たゞちに入会関係を否定することができないのではあるが、しかしそれが登記簿上共有名義に記載されていても、真実入会であるとすれば、入会権の本質上自由に処分のできる持分というようなものは認められないのであり、したがつて部落外の者に対すると部落内の者に対するとを問わず権利移転はあり得べきところではない。入会関係における権利取得はいつも原始取得であり、承継取得はない。部落の住民としての資格を得れば当然に原始的に権利を取得し、部落外に出てその資格を失えば当然に喪失するのである。相続の場合の場合も同様である。相続人は被相続人の共同収益権を承継取得するのではなく、相続の結果被相続人の地位を承継し部落の世帯主となつたことにより原始的にその権利を取得するのである。

一旦登記後新権利者の権利を公示する場合においても従来の権利者の持分の一部移転の登記方法はあり得ても、持分の全部移転の登記方法は通常あり得ないのである。

(a) しかるに本件山林については登記簿上前示のような記載がある。

(b) また証人芳本長太、田口仁太郎、芳本宮治(第一、二回)、斎藤喜彌太、芳本長八(第一回)、田口佐市の各証言によれば杉沢部落民に対する権利の譲渡は部落総会の承認があれば差支がなく、譲渡者はその後権利を喪失するものとされていたことが認められ、右認定を左右するに足る証拠がなく、本件山林に関する部落民の権利の処分を容認しており、前段説明のように入会権が本来部落の住民の経済的立地条件から生じた生存権的性質のものであることからは、たゞちに肯定することのできない事態を現出している。

(c) またこの点に関連し前示のように登記簿上持分の移転登記を受けた部落外居住者に対する扱いについてみるに、田口仁太郎、芳本宮治(第一、二回)、泉山専太郎(第二回)、泉山貞吉の各証言、被告杉沢才太郎の本人尋問の結果に右証人泉山専太郎の証言により真正に成立したものと認める乙第一号証によれば、

(I) 杉沢部落外居住の田口源蔵、安ケ平松太郎、被告杉沢才太郎の持分を同部落において買い戻そうと努力し、右田口源蔵分は相当の対価を払つて戻すことができたが、安ケ平松太郎および被告杉沢才太郎分は対価の金額の点において不調に帰し買い戻すことができなかつたこと、

(II) 前記同部落外居住者の杉沢長次郎に対し昭和十三年四、五月頃同部落総代田口仁太郎から部落総会の招集通知していること、

(III ) また昭和十七、八年に被告杉沢才太郎、安ケ平松太郎および芳本丹彌の孫の芳本儀太郎から共有地上の立木を買つたという部落外居住の泉山専太郎に対しても総会の招集通知があり、その総会の際、右被告杉沢才太郎、安ケ平松太郎および泉山専太郎の代理人泉山貞吉も出席して権利者として配分計画中に加えられ、意見を開陳していること、

が認められ、右認定を左右するに足る証拠がないから右部落外の居住者も権利者として扱われていた事実がある。

(二)  その後の分家移住による新居住者の扱いについてみるに、証人芳本長太、田口仁太郎、芳本宮治(第一、三回)、芳本長八(第二回)、田口正典の各証言、原告小坂長治の本人尋問の結果によれば、入会権に基く共同収益権者は元来からの居住者だけであり、その後杉沢部落に移住して来た者および分家した者は部落総会の承認がなければ当然には権利者にはなれなかつたことおよび現在杉沢部落内居住の世帯主は四十余名であるが、その中本件山林に権利を有する者は二十七、八名であることが認められ、右認定を左右するに足る証拠がない。

これによれば本件山林の利用権は杉沢部落民一般の権利ではなく、部落内の一部特定の者の権利となつている。

(三)  さらにその後の本件山林の利用関係をみるに、

成立に争いのない甲第五、八号証、証人芳本長太、田口多吉、田口仁太郎、芳本宮治(第一、二回)、斎藤喜彌太、芳本長八(第一回)、田口佐市、田口勝太郎、斎藤滝次郎の各証言、原告安ケ平巳之松の本人尋問の結果、検証の結果に原告ら主張三の(ハ)の末段および(ホ)の各事実を合せ考えると、

(イ) 約四十年前国有林の雑木の払下を受けるようになつてからは、杉沢部落総会で部落民が毎年自由に本件山林の薪炭用雑木を伐採することを禁止し、雑木の育成をみてから計画的に業者に販売処分していたこと、

(ロ) また四、五十年前から本件山林内の数ケ所に杉の造林をはじめたこと、

(ハ) その後本件山林の薪炭用雑木を大正四年頃姉帯由太郎、大正七年頃高田莞次郎、大正九年頃斎藤市太郎などの業者に売却処分し、その売得金は部落総代において保管し、これから、同町大字浄法寺の太田分教場の建築費として浄法寺町に寄附したり、公租公課を支払つたり、田口源蔵からの買戻代金を支払つたりまたは部落民に低利で貸付けたり、その他必要の都度支払うこととし総代において貯金しておいて部落民に分配しなかつたこと、

をそれぞれ認められ右認定を左右するに足る証拠がない。本件山林の立木に対する利用関係は大正四年頃から自足経済的現物経済的利用形態から貨幣経済的利用形態に転化しており、ことに四、五十年前から杉の造林をはじめ山林の商品化を企図しておる。当時本件山林の雑立木などが従来のように真に農民の農業生産およびその生活のため不可欠のものであつたとすれば造林はできないはずでありこのこと自体当時部落民の経済的立地条件が変化していたが少くとも本件山林の雑立木などに対する需要に変化を来し当初のような必要がなくなつていたことを物語るものといわなければならない。

(四)  なおさらに伊崎沢の住民関係についてみるに、

証人田口仁太郎、芳本長八(第一、二回)、芳本宮治(第二、三回)、勝又定吉、田口勝太郎、安ケ平嘉吉の各証言によれば、明治十三年当時の伊崎沢居住の世帯主は前記安ケ平孫太一人であつたこと、伊崎沢から本件山林まではかなり遠く、地勢的に不便だつたので前示国有林払下の際も伊崎沢の居住者は杉沢部落から脱けて他部落の者とともに払下を受け、また前示太田部落の分教場建築費の寄附の際も杉沢部落と行動を共にせず他部落の者とともに寄附したこと、右安ケ平孫太が大正五年一月前記のような事情だつたので本件山林の共同利用関係から脱けるため、杉沢部落の総会の承認を得て前示のようにその持分を田口嘉太郎に譲渡したこととしその旨の持分移転登記を経由したこと、およびその後伊崎沢には現に六世帯主が居住するが、だれも本件山林を利用していないことを認められ、右認定を左右するに足る証拠がない。

右伊崎沢の脱落は伊崎沢と本件山林との間の当初の経済事情の変化により伊崎沢の住民の必要性がなくなり、入会関係が消滅したものであることが推察され、このことからもすでに大正十年以前に、本件山林に対する杉沢部落民の経済事情にも相当の変化のあつたことを推測される。

以上の(一)ないし(四)の各事実を合せ考えるときは本件山林の入会関係は明治十三年以降大正十年までにおいて、すでに相当の変化のあることが窺われる。

4  なお当時の政府の入会関係に対する方針態度をみるに、

(イ)  政府は当時官有地について極力入会の廃止整理をはかり、

(a) 明治初年前示のように山林原野の官民有区分の際、民有の確証のないものは官有とし、官有となつてからも旧来の入会の慣行のあつたものは拝借地として旧来のとおり地上産物の採取は容認していたが、入会権としては認めない方針であつた。

(b) 明治四十三年十月林第四千九百二十七号農商務内務両次官から各府県知事あて通牒「国有林野整理開発に関する件」および大正八年五月林第八百七十号同様通牒「公有林野整理開発に関する件」を発して極力部落有林野の町村統一を勧めるとともに、入会または共同使用の旧慣の整理解消を促し、統一された町村有林野に対する造林奨励のため大正三年六月四日農商務省令第十五号公有林野造林奨励規則および大正九年法律第九号公有林野官行造林法を制定し、その事業の遂行をはかつていた。

(ロ)  このような官有地の入会の廃止整理の方針態度は、当時の入会山林原野の荒廃の実情に鑑み、一般民有地の入会についても、同様の傾向をもたらす結果となつたことはけだし避けることのできない当時の情勢だつたものといわなければならない。(本件訴状第四項にもこれを窺わしめる記載がある。)ことに造林は従来の入会的利用形態変革の一大契機であつた。

三、以上認定の諸般の事実をかれこれ考察するときは本件山林に対する明治十三年当時の入会権は今日においてはすでに共有権に変質しているものと認めなければならない。

元来山林原野の入会は前述のように農民の居住部落の経済的立地条件による生存権的要求に基く、林野の地上産物の自足経済的現物経済的利用形態であり、農民の生活上の要求に根ざし、保守的農民生活に関することであり、一般社会の経済生活における変遷と速度を同じくするものではないが、経済生活に関するものである以上明治十三年以来なんらの変化がないものということができない。現に前段説明のような変化の跡があるのである。今日の入会の問題は、昔のように係争山林原野が典形的入会かしからざるものかの問題ではなく、当初の典形的入会がその後時勢の変遷に伴いある程度の変化をした場合、それでもこれをなお入会というべきか、そのような変化があればも早入会とはいい得ないかの問題である。

本件についてみると、権利者が権利を平等に行使しているとはいえ、当初部落の全住民の権利だつたものが、その後特定の住民のみの権利となり、しかも当初の全住民の生存権的性格を捨て、すなわち日常必要な薪炭用雑木などの自足経済的現物経済的利用形態であつたのを貨幣経済的利用形態に一大転換をなし、共有権の利用形態と異るところがなくなつてしまつた以上入会の本態である利用形態においてその特質を喪失したものといわなければならない。前示のように被告杉沢才太郎ら部落外居住の持分譲受人を権利者として扱つていることはこの間の事情を裏付けるものである。

原告ら申請の証人らは口を揃えて本件山林は今日もなお入会山林であると証言しているが、その証言するところによつても、前段説明に徴しても明らかなように、前示認定の諸点の変化を肯定しているのである。そのような変化があつても右証人らはなお入会であるというにすぎないのであり、当裁判所と法律的評価を異にするにすぎないのである。右証人らの証言によつてもまた甲号各証によつても右認定を左右することができない。他に右認定を左右するに足る証拠がない。

はたしてそうだとすれば本件山林に対する前示明治十三年当時の入会権は今日も早共有権に変質し存続しないものといわなければならない。

よつて本件山林に対する入会権が現に存続することを前提とし、原告らのこれが共同収益権のあることの確認および被告らの共同収益権ならびに共有持分権のないことの確認を求め、なお被告らに対する共有持分移転登記の抹消を求める原告らの本訴請求は、原告らの権利関係その他の判断をまつまでもなくいずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条第九十三条一項本文により主文のとおり判決する。

(裁判官 村上武 佐藤幸太郎 梅村義治)

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